浄土真宗本願寺派 金證寺
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金證寺の歴史と現在
沿革
本寺の創立は永和3年(1377年=南北朝期)に近江国滋賀郡小野里(志賀町小野、堅田の北にある湖西の集落)の住人である勘解由之尉(かげゆのじょう)と称する一族が侍として大和国に三度出陣の後、大将より太刀と聖徳太子三十八歳御自刻と伝えられる阿弥陀如来像(専長寺へ遷座)を賜った。
その後、後小松天皇の時代に当たる永徳3年(1383年、南北朝期)に息子の広之助がそれを背負って本村に来たり、常磐のという所の山岸に一つの小堂を建築して自ら蓮華堂と称して名乗り、三代を経過した後、理由があって天台宗より浄土真宗に転じた。
寛永年間(1624~44年、江戸時代前期)には金證寺の号を本山から賜って、宝永3年(1706年、江戸時代中期)まで連綿と続いたが、この年の大洪水のためにお堂の建物が破壊した。
同じ年の8月、現在の地に移転した。
明治24年(1892年)10月28日午前6時37分M8.0の巨大地震が、発生(濃尾地震)。この時、本堂新築工事中に被災し、残った廃材等で仮本堂が建てられた。
皆さんが被災した中で、いの一番に寺の再興を心掛けて下さった当時のご門徒・地域の皆様の厚い信仰心に頭が下がるものであった。
平成18年4月に本堂新築落慶法要を行うまで、約130年余りの時を耐え仮本堂は勤めを果たして下さったのである。
解体時に、その時の職人さんの素晴らしい技が随所に感じられた。1本の柱も、裏側には、幾本かの木が継接ぎされ幾重にもの工夫の数々に、心打たれるものがあった。
本堂新築時には、同時に山門・鐘楼・外構工事等も行った。
蓮如時代と本寺の関係について
本寺の初代 釋覚音は、天文14年(1545年)3月6日没となっている(「当寺累世住持年月忌誌」による)。
この人は、蓮華堂を開いた永徳3年(1383年)より四代後の人であるといい、百六十余年の時間は不合理では無い。
おそらく、釋覚音が没する天文14年(1545年)より何年か、数十年か前に転派したのであり、それは1545-xという年になる。
ところで、蓮如上人は明応8年(1499年)の没で、初代釋覚音の没年である天文14年(1545年)より46年前ということになる。
釋覚音が没する46年前に生存していたか、また転派したのがそれ以前であるかは、釋覚音の年齢がわからないのでなんとも言えないながら。あり得るが可能性は低いという結論になる。
現時点で確定した結論は出せないが、蓮如時代もしくは、実如-証如の三代のいずれかの時代に転派したの考えるところで留まるように考えます。
法物
蓮如上人直筆六字名号
天台宗より浄土真宗に転派した際に、蓮如上人より賜ったと伝えられる。
報恩講や永代経法要の際に、左余間に安置します。
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